2017 旭硝子財団 助成研究発表会 要旨集
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炭鉱開発が始まる前の池島は,電気も通っておらず,対岸との交通も不便なよくある離島の一つであった.それが,開発に着手した1952年には送電が開始され,島を一周する道路が整備されるなど,基礎的なインフラが着々と整備されていった.社宅などの整備も急速に進み, 1959年には幼稚園,小中学校,鉱業所病院池島分院が相次いで設立されたほか,食料品や衣類等,生活物資の販売店舗も営業を開始した.その後,映画館や運動・娯楽施設,公民館などがあいついで整備・拡充され,開業医や理髪店,商店も開業するなど,1960年代を通して福利環境は格段と向上していった.対岸との交通の便も改善されていった.池島は「一寒村から炭都へ」3)と,短期間で大きな変貌を遂げた. 2.3. 閉山後の課題 わずか20年足らずのあいだに大きく躍進した「炭都」池島の繁栄は,見たように長くは続かなかった.石炭産業が最終局面に向かうなかで,1980年代末以降,池島炭鉱は生き残りをかけて出炭量を維持しながらも人員を削減させる合理化に力を注いでいった.1988年から97年にかけて池島炭鉱は,年間出炭量120万トンを維持しながら,労働者数を1,000人強から500人弱へと半減させていった.この間,出炭能率を倍以上に向上させていったのである.しかしそのような努力にもかかわらず,2001年,池島炭鉱は最終的に閉山した. 先にみたように,閉山後,池島の人口は急減し,老齢化率が急上昇してきた.それに伴い,7,000人規模の住民を想定し,「炭都」池島の物質的な基盤であったインフラは,大幅に縮小した人口規模にみあったものへの転換を迫られてきた.さらに,離島という自然条件に,住民の高齢化という課題もある. 1985年と2015年の年代別人口構成比を比較すると住民の年齢構成が著しく変化していることが分かる(図4). 図4. 年代別人口構成比の比較(1985年, 2015年)1)2) 60歳以上の住民が全体の7割を超えており,50歳未満は十数パーセントを占めるにすぎない.地域の基幹産業が撤退したことにともない,生産年齢人口の大半が島外に流出してしまっていることを印象付けるものである.このような極端な人口流出は,基幹産業の撤退とともに働き口がなくなったことと,島の9割以上の土地が炭鉱企業の所有地であり,開発以前からの住民の住む地区と公営住宅をのぞけば,職を失った場合,池島に住み続けることが困難となるという事情もあるものと考えられる.開発にあたって島の大半の土地買収は,短期間での開発と生活環境の整備・向上を可能にしたが,同時に産業撤退後,急速な衰退の原因ともなった. 炭鉱開発とともに地域社会は大きく変わった.古くからの島民にとって,出稼ぎと自給的農業に大きく依拠した島の生活5)は,炭鉱やその関連産業に依拠し職住近接の安定した生活に変わった.池島の帰属する対岸の自治体も「一躍県下屈指の富裕村にもなれる」4)と言われたように,炭鉱の産み出す富は周辺地域にも波及した.炭鉱操業時の池島の人口構成は若く,活気のある「炭都」となった. しかし,そのような繁栄は長くは続かなかった.日本の石炭産業をとりまく厳しい環境と政府の石炭政策のもとで,池島炭鉱は閉山を余儀なくされ,その後,池島は急速な衰退を迎えていく.人口規模の大幅な縮小,離島という自然条件,生産年齢人口の極端な人口流出とそれゆえの急速な高齢化の進展が,閉山後に池島が直面する困難の大きな要因となっている.炭鉱創業時の池島の人口構成の若さも,好況と活気の原因でもあったが,地域の基幹産業への全面的な依存と裏腹のものであり,基幹産業撤退後の衰退を減速させるという面では負の効果を持っていた可能性もある. 地域社会をどのように発展させていくのか.地域の持続可能性を考えるのであれば,産業の衰退・撤退後の地域のあり方についての知見を蓄積する必要がある. 3. 今後の展開 池島と並んで松島炭鉱株式会社が操業していた松島,大島もともに離島の炭鉱であった.自然条件,人口規模等も異なるそれらの炭鉱との比較についても,今後,実施していきたい. 4. 参考文献 1) 日本統計センター(編), 離島統計年報, 各年版. 2) 各年版国勢調査. 3) 長崎日日新聞, 1958年8月14日. 4) 西日本新聞長崎版, 1958年9月30日. 5. 連絡先 〒560-0043大阪府豊中市待兼山町1-16 e-mail : masaki@celas.osaka-u.ac.jp−175−

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